第13章 教育
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学生はなぜ学校に行くか
社会の標準的な答えは、教科を学習するため
より一般的には、学生はだいたいにおいて将来の職業を見据えながら、自分を向上させるために学校へ通うと言えるかもしれない
別の言葉で言うなら、学校は学生が人的資本、すなわちスキル、知識、習慣などを発達させる場所である
本章ではほとんどをブライアン・カプランの著書『教育裁判 The Case Against Education』から拝借して「学習」だけでは教育のすべてを説明でいないことを示し、学生が学校に通う理由と雇用者が教育を受けた労働者を評価する理由について別の様々な理由を提示していく 学習の謎
有名大学に入ることはとても難しいうえに、高い授業料を支払わなければならない
しかしながら、実は誰でも無料でスタンフォード大の教育を受けることができる
正式な成績証明書と学位がいらなければ
真面目に授業に出席し、議論に参加し、場合によっては課題を提出すれば、ほとんどの教授は喜んで他の学生と同じように扱ってくれる
著者のひとりであるロビンは実際に25年前、NASAで働いていた時にスタンフォード大学でそれを実行した
教授の一人は、ロビンが大学院を受験する時に推薦状まで書いてくれた
ほとんどの大学がこのような感じ
天候や病気や出張で教師が授業を休講にする
学習するために学校に行く学生ならば、支払いに見合ったものが受けられなくて困るはず
実際にはだいたい喜ぶ
学位が重要で、それを取るために学ぶ内容や技能は必ずしも大切ではない学生にとっては、まったく自然なこと
それよりも不思議なのは、学位を取得するための学習よりも何よりも学位を重視する雇用者の姿勢
もし雇用者が学習そのものを重視するなら、学校に通った年数に比例して学生により高い給与を支払うはず
雇用主は最終学年とそこから得られる学位に大きな関心を寄せていることがわかっている
今日のアメリカでは、学生は高校や大学で一年間余分に勉強するごとに、生涯賃金が平均で11パーセント上がる
ところが、すべての学年が同じではない
高校と大学の最初の三年間は、平均してわずか4%しか賃金アップに貢献しない
最終学年は平均してそれぞれ30%も給料が高くなる
つまり、雇用者は学生が授業で学ぶこと以外のなにかに関心を寄せているらしい
卒業したという事実は、正式な教育が必要ないように見える仕事でさえ評価される
学生と雇用者の不思議な行動にくわえて、単純な「学習」機能に疑問を投げかけるようなものごとは体制レベルにもみられる
たとえば、学校がわざわざ教えているものごとのほとんどは、実際の仕事では役に立たない
読み書き算数は明らかに有益だ
もちろん一部の教科が生徒個人にとってやりがいがある場合もあるが、雇用者が高校の勉強を高く評価することの説明としては役に立たない。
数学はそれより応用が効くとは言え、幾何学や微積分など、多くの授業はほとんどの生徒の将来的な雇用主にとっては無関係だ
大学でも実用的ではない教科が同じように許容されている
カリキュラムの焦点が将来の仕事に向けて狭く絞られている工学専攻でさえ、学校で学んだ科目の多くは二度と使わない
もちろん、人生には生産性の高い労働者になる以外にも多くの意味があり、その点で学校が役に立っていると考えることはできる
けれどもどもうこれは逃げ口上のように見え、本書の著者二人は、大部分において学校がそのような機能を達成しようとしているとはまったく思わない
「1日6時間教室に座っている事が本当に、視野の広い多芸多才な人間を作るために最適な方法なのか?」
しかしながら「学習」説にとってさらに厄介なのは、たとえ有益な教科を学んだとしても、学生がその人生でそれを適用できるほど長期間その知識を保持していないこと
たとえば、高校のほとんどではひとつの外国語を2年間学ばなければならないが、学校教育のおかげで外国語が少しは話せると答えた成人は7%に満たない
一般的な調査によれば、アメリカ人の成人でアメリカ国籍取得試験に合格できるのはわずか38%、原子が電子より大きいと知っているのは32%だけで、ガソリン1ガロンで5セントの節約は140ガロンでは7ドルの節約になると計算できるのはかろうじて半数
たとえ学校で学んだことを覚えていたとしても、わたしたちはその知識を実世界にあてはめることが苦手だということが数十年の研究によって示されている
学校で教師が問題例について授業をし、それとあまり変わらない宿題を出せば、殆どの生徒には宿題と授業の類似点がわかる
けれども数十年も経てば、学校で学んだことをうまく応用できるほど、授業の例題と複雑な実社会の問題との類似点を正確に認識できる人などほとんどいない
学校の擁護者はしばしば、学校は生徒に「学習方法」と「客観的に考える力」を教えていると主張する
カプラン「教育心理学者は100年以上にわたって、教育の隠された知的利益を測定してきた。そこからわかったことはおもに、教育は応用性に欠けるということである。一般に、生徒は教えられた具体的なものごとそのものしか学ばない」(Caplan, 2017) 体制レベルの欠点はもう一つ、よりよい教育方法が数十年百合から知られているにもかかわらず、学校がいつまでたってもそれを採用しないこと
特に生徒がティーンエイジャーの場合には、授業が早朝に始まらないほうが学習能力が高まる(Gwern, 2016) ノースカロライナ州のある学校区で、始業時間を一時間繰り下げたところ、生徒の成績が2パーセンタイル上がった(Edwards, 2012) それにもかかわらず、少なくともアメリカ国内のほとんどの学校区では、13歳以上の始業時間は9歳から12歳までより早い
明らかにこれには、スクールバスの運行や放課後の課外活動など多くの要因が絡んでいるが、学習に対するトレードオフが認識されることはめったにない
何よりも深刻な疑問点はもしかすると、国家レベルの教育に個人レベルほどの価値がないという調査結果かもしれない
個々の生徒の場合は、学歴が一年伸びるごとに、おおまかに8~12%の収入増が見込める
ところが国全体としては、国民平均の学歴が一年伸びても、収入はわずか1~3%しか上がっていない
学校教育が各生徒の能力を向上させる方法で本当にうまく機能するのなら、個々の生徒の伸びが国全体で積み重ねられてもよいはず
けれども国は国民の教育からあまり恩恵を受けていないようだ
シグナリング説
基本的な考え方は、生徒が学校に行くのは仕事に役立つ技能の習得というよりむしろ、将来の雇用者に対して労働者としての自分の可能性を見せびらかすためだという点にある
言い換えれば、教育の価値は学習だけでなく、信用証明にもあるということ
むろん、この発想はスペンスより前から存在するが、スペンスはそれを数学的に表現したことで知られている
シグナリングモデルによれば、各生徒には隠れた資質があり、将来雇用するかもしれない側はそれを知りたくてたまらない
しかし、その資質は、たとえば就職希望者に簡単な試験を受けさせる程度の短期間の観察では容易にわからない
そこで雇用者は学業成績でそれを代用する
学校の成績がよい生徒は、長期的に見て仕事の能力が高い傾向があるため、これは理にかなっている
例外も多々あるが、全般的に見て、学校の成績から将来の職務遂行能力(と収入)が予測できる
実際には、雇用者が直接評価したいのは各労働者の生産性だけではない。
雇用者は顧客、納入業者、投資家など外部の人間に自社の労働者を自慢したいのである
学校でも職場でも、知能が重要な要素であるように語られる事が多いが、重要な点は、知能だけではどうにもならないことだろう
カプランが述べているように、最適な従業員とは、知性はもちろんのこと、誠実さ、注意深さ、しっかりした労働倫理、進んで期待に応えようとする姿勢など、様々な特質を併せ持っている人
こうした資質は倉庫や工場などのブルーカラー労働のみならず、ほわいとからーでも力を発揮する
しかしながら、知能指数は30分ほどの簡単なテストで測定できるのに対して、それ以外のこうした資質は長期にわたる一貫した実績によってしか証明できない
会社で大卒、22歳の求職者の面接を行うと想像しよう
履歴書を見ると二年生のときに生物学でAを取っている
まだ知識が残っているかもしれないが、統計学的に見れば、おそらく多くのことを忘れてしまっただろう
正確に言うなら、履歴書は彼女が生物学の授業でAを取れる能力を持つ人物であることを告げている
概念を理解する能力以外にAからわかるのは、彼女が一貫して学習量をちゃんと管理できるタイプだということ
彼女が実際に生物学やその他の授業の内容を覚えているかどうかとは関係がない
そしておそらく彼女が正確にはどうやってそのよい成績をとったのかをあれこれ考えるだろう。いずれにしても、成績はものごとを達成する能力を証明している。
言い換えれば、高等教育を受けた労働者は一般的に優れているが、学校が優秀になるよう育てたとは限らない
そうではなく、教育の価値の多くは、すでに持っている魅力的な資質を宣伝する機会を生徒に与えているところにある
カプランがわかりやすい類似例を示している
祖母から相続したダイアモンドをよい値で売りたい
磨いたり魅力的な形にカットしたりして改良する
専門家に鑑定してもらって、鑑定書を発行してもらう
教育
従来の教育観は改良を通して生徒の価値を上げること
シグナリングモデルによれば、教育とは鑑定書を通して生徒の価値を高めること
当然のことながらこのふたつのプロセスは共存できる
労働経済学者はこのシグナリングモデルを重要視しない一方で、教育社会学者のあいだではよく知られていて評判がよい
間違いなく教室では学習も能力向上も行われており、その一部は雇用者にとっても必要不可欠だろう
特に工学、医学、法学といった技術を要する専門分野はそうだ
しかしながら、そうした分野においてさえシグナリングは重要であり、それ以外の多くの分野にいたっては、シグナリングが完全に学習機能を上回っている可能性もある
たとえば、カプランは、教育全体の価値のうち80%までがシグナリングに基づいていると推定している
シグナリングモデルが意味していること
公式な機能にとって欠点に見えるものごとは、実際には隠された機能にとっての利点になっている
たとえば、学校が退屈で面倒でひたすら時間を費やすだけであるという事実は、生徒の学習能力を妨げるかもしれないが、学校がおもに証明を与える場であるなら、その目標は小麦をもみがらから選り抜くこと
もし学校が簡単で楽しいものだったら、その目的にとってはあまり役に立たない
シグナリングからはまた、現在存在しないたくさんのものごと、すなわちもし学校がおもに学習の場であったなら存在するであろうものごとがわかる
たとえば、もし学士号の価値がおもに大学で学んだ内容に基づいているなら、大学が学生に履修した科目すべてを網羅する広範囲な卒業試験を課してもおかしくない
けれども、雇用者が本当に知識に関心を持っているなら、学生が実際にどれくらい記憶しているかを知りたいと思うはずだ
だが、雇用主は学生の一般的な能力に関する情報で満足しているように見える
国レベルでは個人レベルほど学校教育から価値を引き出せていないという疑問もシグナリングモデルで説明できる
学校が学習ではなく証明を与える場になればなるほど、国全体が学習期間の長さから得られる利益は少なくなる
役に立つことをほんの少ししか学べないのなら、国民全員を1年余分に学校へ送り込んだところで、国全体の生産性はほんの少ししか上がらない
その一方で、一国家一個人の生徒は、学校へ通えば将来の所得を著しく増やすことができる
その理由は学習した内容ではなく、人より多く学校へ通えば優れた労働者として自分を際立たせることができるから
そして何よりも重要なことに、ほかの生徒より目立たせることができる
したがって、教育が学習ではなくシグナリングに動機づけられていると考えれば、教育は相互利益のための協力活動ではなく、むしろ競争である
大学教育について批判的なことで知られるハイテク億万長者のピーター・ティール
高等教育は人を階層に分ける。頂点の子どもたちは他者との競争を勝ち抜いて、誇らしげにほとんどの人を締め出す学校に入り、名声を享受する。ハーヴァード大学が力を注いでいる仕事は、入試事務局の責任者らによる、すでにきわめて競争力が高いことが証明されているエリートたちの選定だけ。それが真実でないと言うのなら、すぐれた教育にこそ大学の価値があると言えるなら、なぜ名門大学をフランチャイズ化しないのか?もっと多くの学生に利益を与えてはどうか?けっしてそうはならない。なぜなら、アメリカの名門大学はゼロサムの競争によってそのオーラを得ているからである(Thiel, 2014) これらはみな、巨額の助成金と学校教育の促進について再考を促している
確かに証明の付与と生徒の選別は、いわば、高技能労働者を重要な仕事に就けることによって得られる経済的な効率という点では有益
けれどもその利点は、教育の勝ち抜き戦が生み出す膨大な資金、心理、社会的な浪費と比べれば微々たるものであるように思われる
心理的コストについては以下を考慮されたい
優良校であるパロ・アルト高校2年のキャロリン・ウォルワーズは最近こう書いた。「自分の部屋で、入りたいと思っている大学のリストを眺めて、各大学に入れる確率を判定しようとしていたら、無性に悲しくなった。」官女は教室でのパニック発作や疲労のあまり生理が止まったことを告白した。「わたしたちはティーンエイジャーなんかじゃない」と彼女はつけくわえた。「競争や嫌悪を生み出して、チームワークや本当の学習を妨げる制度のなかの、命のない肉体だ」(Bruni, 2015) シグナリング以外
今日の学校がおもに証明機関の機能を果たしているなら、同じことを達成するためにもっと安価で無駄の少ない方法があって当然だと思われる
チャレンジ精神の旺盛な若者なら、中途退学して徒弟のように数年間入門レベルの仕事に就くこともできるだろう
その人が賢く、勤勉だったら、学位を取ってから就職した場合と同じレベルに昇進することも可能だろう
部分的な答えは、学校へ通うことは規範であり、ゆえにそこから逸脱すると社会の期待に応えたくないという意思表示になってしまうとする考え方
ほとんどの人はビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズまで才能に恵まれていない
学位を取れないほど落ち着きのない人物を採用するリスクを冒す雇用者がどこにいるか
型破りはCEOには最適かもしれないが、銀行や製紙会社で働く人に適しているとは限らない
この論理にしたがえば、学校は必ずしも労働者としての可能性を見せびらかすために最適な場所ではないけれども、そこがたまたまわたしたちの文化が行き着いた社会の拠り所であるため、わたしたちはそこから逃れられないということになる
しかしながら、学校が本当に無駄なら、だれかが積極的にほかの選択肢を思いついてもよさそうなものだ
確かに、オンライン講座や、才能ある生徒が大学教育を省略して起業するためのティールの資金援助など、その方向に向けた取り組みはいくつか存在する
けれども、だいたいにおいて、ほとんどの人は学校に時間と金を費やすのはもっともなことだと考えている
ひとつには学校にはスキルの習得と労働能力のシグナリング以外にまだ、役に立つ様々な役割があるため
たとえば、幼い子どもに対しては学校は保育という価値ある役割を担っている
学校はたいてい政府の援助を受けているだけでなく、子ども対「ベビーシッター」の比率がきわめて高い
くわえて、小学校から高校までは仲間と触れ合って社会生活を送る絶好の場である
在宅教育の子どもならわざわざ別の手段で追い求めなくてはならない好機
一方、10代後半の子どもにとっては、大学は一般に「教育的」とはみなされない様々な役立つ機能を果たしている
巨大な人脈づくりの場であり、職業的にも社会的にものちの人生で大きな価値を持つかもしれない友人や知人を得ることができる
また、未来の夫や妻に出会うために最適な場所でもある
たとえ大学で伴侶に出会えなかったとしても、大学に通って卒業するだけで、大卒のだれかと結婚する確率が高くなり、世帯収入は著しく増加する
Bruze, 2015によれば、デンマークでは、人々は「学歴による収入増のほぼ半分を結婚によって」得ていることが示唆されている 人脈づくりとデートというこの大学の機能は、学生の将来に対する投資と考えることができるかもしれない
一方、大学に行くということを消費行動と考えることにも一理ある
つまり、一部の学生が大学を好むのは、それが4年も続くサマーキャンプのごとく楽しいから
心の中の個人的な楽しみ以外に、大学は衒示的消費の役割も果たしているかもしれない 家族の富や社会階級についてシグナルを発信するもう一つの方法なのだ
学校のこうした「隠された」機能はいずれもそれほど隠れていない
それでもなお、これらの機能は公の討論ではほとんど注意を払われない
ほかのすべての条件が同じなら、学校は学生が学ぶ場所であるという一番向社会的な動機を強調することが好まれる
「子どもを伸ばす」ために学校へ行かせると口だけで言うだけならコストはいっさいかからない
プロパガンダ
学問を指す「アカデミック」という言葉は、講義や討論のために学者が私的に集まったオリーヴの木立にちなむ、プラトンの「アカデメイア」に由来する
けれども今日の学校はプラトンのアカデメイアとはこれっぽっちも似ていない
義務教育で公費でまかなされている
公的義務教育の伝統は比較的近年に始まったもので、その誕生はとりたてて「学問的」でもない
18世紀と19世紀の軍事国家プロイセンの領土拡大とともに発展したもの
プロイセンの学校は戦争のために愛国心の強い国民を育てるよう設計されており、見たところ意図されたとおりに機能した
けれども、プロイセンの教育体制には、教育の訓練など他にも多くの興味深い長所があり、それがほかの国家の目を引いた
そして1800年代なかば、アメリカの教育者と政治家も表立ってプロイセンの模倣に着手した
これは公的K12教育が当初、建国プロジェクトの一部として、国民を洗脳して愛国心を高めるためにデザインされたことを示唆している
つまり、学校は強力なプロパガンダの役割を果たしたのだ
特に、国の問題についてバラ色の側面ばかりが強調される傾向にある歴史と市民権の学習過程にそれがはっきりと表れている
プロパガンダ機能の統計学的な証拠は歴史に見ることができる
そして、力のある政府がマスメディアを統制しようとするのとまさに同じように、各国政府は学校でも国の支配を強めようとした
今日では、一国一党の政権のように富の移転の大部分をコントロールしている政府は、力のない政府よりも学校教育とテレビ局に資金を投じて支配する傾向がある。ただし病院はそうではない(Lott, 1999) 確かに世界的な観点に立てばこれは無駄かもしれない
けれども、少なくともなぜ各国がこの種の学校教育を避けようと国内で足並みをそろえないのかということは理解できる
しかしながら全体的に見れば、プロパガンダは生徒の教育方法という点ではわずかな役割しか果たしていない
その一方で、生徒の日常生活に直接影響を与えるような、教育の隠された機能がもう一つある
飼いならす
家畜化できる動物が少ないおもな理由の一つは、群れのボスの役割を人間に任せるのは社会的な動物だけであり、そのような動物はまれだからだ(Diamond, 1997) そして、人間も本来は他の人間に服従することを嫌う
狩猟採集民だった古代の祖先は徹底的に平等主義で、命令を与えたり受けたりするふりでさえしないように全力を尽くしていた
歴史をたどれば、多くの女性が過程内で虐げられてきたとはいえ、産業革命以前は、男性のほとんどは自由だった
子供時代と戦争を除けば、日常的にほかの男性から直接命令を受けなければならない状況などほとんどなかった
その観点から、いかに産業時代の学校体制が現代の職場に合うように人々を訓練しているかを考えてみよう
子どもたちは何時間もおとなしく座って、自分の衝動を抑え、退屈な繰り返し作業に集中し、チャイムに合わせて場所を移動し、トイレに行く前に許可をもらわなければならない
教師は従順な子どもを褒め、「感情を表に出す」すなわち自分が自分のボスであるかのように行動する子どもを罰する
子どもたちはまた、しばしば他者の前で行われる、評定、成績、順位づけを受け入れるよう訓練される
一般に10年以上も続けられるこの活動は、人間の家畜化における体系的な実習の役目を果たしている
この考え方は、工場のような近代的な職場な管理者の報告によっても裏付けられている
地域の労働者文化と子供時代の教育が著しく現代的でないかぎり、世界の労働者は団体行動を拒むことが、かなり前から報告されているのだ
学校が文化におよぼす影響は生徒個人に及ぼす影響と同じくらい重要かもしれない
たとえば、はるか昔から学校に高い名声があったがために、すべての人(学生、親、広い社会)が家畜化の影響に耐えられるようになり、またそれを賞賛さえするようになった可能性もある。飼いならす訓練に子どもを送り出すことを親が容易に受け入れられるのであれば、学校より児童労働に送り込むほうが費用が安く効果が高いはずだ。けれどもそれでは売り込むことが難しい。だが「有名な教師から学ぶ」という表向きの話を持ち出せば学校を容易に売り込める。学習と名声の関係についての詳細はHenrich & Gli-White, 2001とHnerich, 2015を参照 産業革命が始まった頃のイギリス、そしてより近年では発展途上国でこうした不満が訴えられている 主な兆候は、学校教育を受けていない労働者は言われたとおりに行動しないこと
たとえば、紡績工場で紡績機械から十分に意図が巻かれた糸巻きを外す仕事をしている「ドッファー」のデータ
1910年、世界各地の異なる地域のドッファーは、基本的に同じ材料と機械で同じ仕事をしていたにもかかわらず、その生産性に6倍もの差があった(Clark, 1987) 場所によって、ドッファーひとりで6台の機械に対処できることもあれば、1台しか扱えないこともあった
問題は、あまり発展していない国々では労働者が多くの機械を担当することを頑として拒むことだった
1920年代にインドを訪問したアメリカ人のモーザーは、インドの労働者ができるかぎり多くの機械を受け持つことを拒否すると言い放った。「(中略)だれが見ても楽々と増やせるはずなのに、それをしない。(中略)いくら説教をしても、出世や賃金アップのチャンスを示してもだめだった」。1928年、経営側が労働者ひとりあたりの機械の台数を増やそうとしたところ、ボンベイの大規模なストライキにつながった。同様の話はヨーロッパやラテンアメリカでも持ち上がっている(Clark, 1987) 学校教育を受けていない労働者が命令を受けることを嫌がる気持ちは様々な形で示される
時間通りに職場に来ない、困った迷信を信じている、仕事の指示を直接の命令ではなく間接的なヒントで受けたがる、文化によって決められた同僚との相対的な社会的地位に合わない仕事や役割を受け入れない、以前とは異なる方法で仕事をするように言われても拒むなど
現代の学校教育はまた、公平と平等の点でも生徒の態度を変えているように見える
ほとんどの5年生は厳密に平等主義でものごとを等しく分けようとするが、思春期の終わり頃になると、ほとんどは能力主義に切り替えて、個々の達成度に応じてものごとを分けることを好むようになる(Almås et al., 2010) 家畜化という教育の機能は圧制的で、あたかも権威主義の前兆のように見えるかもしれないが、賛美しやすいソフトな一面もある
それは文明だ
生徒が暴力を振るわなくなる
礼儀とマナーが培われる
協力が助長される
たとえばフランスでは、学校は「野蛮な」農民を文明化して行儀の良い市民に仕立て上げるものと考えられていた
学校は「体の健康と清潔を保つ習慣、社会と家庭におけるマナー、ものごとの見方と判断のしかた」の修正を試みている。野蛮な子どもは新しいマナー、見知らぬ人に対するあいさつ、ドアのノック、きちんとした相手がいるときの振る舞いなど(中略)を教えられる。(Weber, 1976) 学校教育が根付いていない場所では「ものごとのやり方は大ざっぱで、性格は暴力的で興奮しやすく、すぐに頭に血が上り、もめごとや喧嘩が頻繁である。」(Weber, 1976) つまり一長一短
学校は人々を現代の職場、あるいは社会全般に合うように育てるために一役買っている
けれどもそうするためには、人間の狩猟採集民精神を封じて、現代の階層における地位に屈服するよう鍛えなければならない
この試みには多くの社会的また経済的な利益があるが、最初に犠牲になるのは「学習」だ
1980年のニューヨーク市最優秀教師受賞スピーチで、多くの教師は築いているけれどもあえて率直に述べる人がほとんどいあにものごとについて語った。
「学校と学校教育は、世界中の偉大なる冒険心とはますます無関係になってきています。科学者は科学の授業で、政治家は公民の授業で、詩人は国語の授業で学んだと信じる人はもはやだれもいません。本当のことを言えば、学校は命令にしたがう方法を除けば、何一つ教えていないのです」(John Gatto, 1990)